2002年7月20日(土)
佐伯郡宮島町「岩惣」
私は当年とって79歳、間もなく80歳を迎えます。還暦などのお祝いには縁のない人間です。満年齢で暮らしていると、数えの年を見過ごしてしまうからです。私が生まれた大正12年は偶然にも作家が出た年で、司馬遼太郎さん、池波正太郎さん、遠藤周作さん、隆慶一郎さんはみな同い年です。私が小説家になったのは遅く、その前は46年間映画の脚本家をしていました。60歳を越えると監督やプロデューサーよりも年上になるので、61歳で映画の仕事を打ち切り68歳で小説を書き始めました。
小泉首相は前々から私の小説の読者で、平成5年にテレビで愛読者だと私の本を紹介して下さいました。
私は天下を動かす人物を小説に書こうと思いました。最初に私が書いた小説の主人公は大石蔵之助で、赤穂藩をとり潰された大石は独裁者の柳沢吉保に一泡吹かせようとして討ち入りをしたのです。これは徳川幕府265年間で最大の騒擾事件でした。明治維新、島津、本能寺、平家などは、その時代の天下が動く。天下が動くことで改革が起こるということで書いたのです。きょうの題目に縁が無いとは言いませんが、現在の改革は非常に難しい問題ですが、日本だけでなく諸外国でも改革が必要だという事態です。
そもそも人間が霊長類ヒト科として地球上に出現したのは約170万年前、まだ大陸が移動していた頃のことです。それから人間は自然の変化に合わせ知恵だけで生活を変え生き抜いてきました。1年間に約100種の生物が絶滅している現在、生物としては1日として改革を忘れてはならないのです。バブルが崩壊して14年経って改革するのではなく、改革は遅れただけなのです。現在の改革は60年に近い怠慢の決算なのです。しかし、改革を止めていた歪みは非常に大きくなっています。
最近の改革の例として英国の改革があります。1970年代から起きた英国病に対するサッチャー首相の改革です。サッチャーの前の首相のヒースは、自動車メーカーのロールスロイスが危機に陥った時、英国の象徴だと国有化してロールスロイスを救いました。それを見た国民は、この程度で国は我々を救ってくれるのだと思い、ヒースの英国病退治は失敗に終わりました。その後の政権でサッチャーは、潰れるものは潰さなければとロールスロイスを潰しました。それからサッチャーの改革は5年間続き、イギリスの失業率は13%を記録しました。支持率は急激に下がりましたが、改革に改革を重ねました。その結果、英国はいまヨーロッパで一番健全な財政を誇っています。
サッチャーが自叙伝で世界で一番完璧な改革が成功した例は日本の明治維新で、自分はそれをお手本にして改革を したと書いています。なぜなら、明治維新は徳川幕府が倒れた後の新政府を立てるため、それまでの幕府の組織を全て捨てました。維新の功労者はゼロから国を作らなければならなかったのです。今でいうなら市役所の用務員まで人を変えたということでしょう。我々はいまの改革にそこまで厳しいことを求めている訳ではないのです。ある程度の痛みは当然のことでしょう。中国の鄧小平の開放改革に比べても、日本の改革は歴史上から見ても大したことではないと思います。この程度の痛みに耐えられずに、小泉改革は失敗などと言っていては、永久に改革は成し遂げられない。これは経済学にも政治学にも無知な私が歴史上から見た経験です。
7世紀後半690年ころ日本に改革の嵐が吹きました。大化の改新から50年くらいたち、藤原不比等が中国の唐をまね律令国家を作ろうとした。律(税制)と令(法律)で秩序ある国家を築こうとした。しかし、その後の藤原300年で綱紀は緩み、藤原氏の摂関政治で国家は疲弊しました。そこに出て来たのが平清盛でした。清盛は保元平治の乱で藤原氏を粛正し権力を手にしました。さすがに清盛には先見の明があり、内需を上げても国家は繁栄しないと考え、中国の宋から技術を導入して工業を起して製品を東南アジアへ輸出するという遠大な計画を考えました。清盛はその時代としては、大理想をもった人物であったと言えます。
日本の歴史観の悪いところは、歴史上の人物を善と悪に簡単に分けてしまうところです。例を挙げれば、蘇我入鹿は悪人で、藤原鎌足は善人で、清盛は悪人で、義経は善人で善人の義経を殺した頼朝は中悪人くらいでしょうか。このように後世の評価で分けてしまうことは誤りだと思います。
清盛は中央集権で国家を統制しようとしました。源頼朝は京に上らず、狭い鎌倉に幕府を開きそこから出なかった。言葉を変えれば、鎌倉幕府は地方政治と言えます。武士を束ねることことはできましたが、政治を行ったのは平安京の官僚です。このように清盛の大きさと頼朝の小ささはすぐわかります。しかし、平家は滅び源氏が天下をとったので、歴史は書き換えられ平家は悪人とされました。蒙古の襲来がきっかけで鎌倉幕府が倒れた後、足利氏ではなく違う政権だったら平家の評価はもっと変わったかもしれません。しかし、源氏一族の足利氏が天下をとったから平家は悪人のままです。その足利尊氏は敢然と中央へ進出するため鎌倉を捨て京都に上り、当時の後醍醐天皇を隠岐の島へ流しました。後醍醐天皇のような魑魅魍魎が多くいた中で足利尊氏が苦心惨憺して作った幕府は15代も続きましたが、尊氏は悪の権化とされました。これが日本の歴史観の誤りなのです。だから私は清盛に対する歴史観を変えようとして「平家」を書こうと思いました。
いったい歴史小説とは何か。司馬遼太郎はたとえが上手い人でした。司馬さんは、「その時代の空気をかき集めてかき回すと空気が固まる。情景や人物の動きなどの空気が固まると歴史小説になる。」と言いました。私は文献や資料を調べ、その世界に没入して歴史小説を書き始めます。平家の時代は今から850年前という古い時代なので、なかなか世界が見えて来ないので小説を書くのに苦労します。人物を造形することが歴史小説を書く中で一番大切なことだと思います。他の歴史小説が悪人として書いた清盛をどう書くかが問題でした。司馬遼太郎の傑作に「竜馬が行く」があります。日本の歴史小説を変えたと言える小説です。有名な歴史学者が、この「竜馬が行く」を歴史の教科書にすれば良いと言いました。戦後の歴史教育は人物について教えていない。事象についてだけ教えてきた。人間の営みで歴史は作られるのです。事象は人間が作るものです。人間を書かなければ、歴史は分からない。「竜馬が行く」を教科書にすれば、歴史のおもしろさが分かるという提案です。しかし、司馬さんが最も反対しました。「竜馬が行く」の竜馬は司馬が創り上げた竜馬だから、歴史上の竜馬ではないのです。司馬さんは、その後も国盗り物語で「マムシ」と人々から忌み嫌われた美濃の斎藤道三を非常に魅力的に書きあげました。司馬さんの手にかかると道三は織田信長以上に魅力がある。司馬さんの人物の造形力です。もし私の「平家」を読んで清盛がこんなに魅力的だと思ってもらえれば私の勝ちです。
「平家物語」をはじめとする「玉葉」や「愚管抄」などあらゆる書物の中で、清盛は悪人扱いされました。私はそうではないと思いました。それらを書いた人がどういう気持ちであったかを考えなければならないと思います。「玉葉」を書いた九条兼実は摂関家の末っ子に生まれ、兄が早く死んだため所領を清盛が預かり長い間所領を継ぐことができず、清盛の悪口を書いたのです。後の世に書かれた文書を証拠に基づいた事実だと信じてしまうのは歴史学者の悪弊です。この学者たちに清盛に会ったことがあるのかと聞きたい。
私は週刊誌の対談で二度、小泉首相と忌憚なく話しをしました。その時、小泉首相にこう言いました。小泉さんは改革を叫んでいますが、改革は7~8分やったら全部をやらずに止めるべきです。改革は一度始まると止まらなくなります。小泉さんの後継者も、改革の後継者と名乗らざるをえないのだから、時間はかかるかも知れないが改革は行われます。だからあなたが最後までやってはいけないということです。
中国の鄧小平は文化大革命の時、大悪党とされました。鄧小平は後に4人組を葬って中国の実権を握り、昭和54年日本の工業の発展を見に来ました。日産自動車の厚木工場を見た鄧小平は、「中国は30年遅れている。」と言いました。30年前というのは毛沢東が中国を建国した昭和24年です。つまり毛沢東が中国を建国した時から中国は一歩も進んでいなかったと鄧小平は言いたかったのです。彼は中国に帰ると同時に、改革開放政策を始めました。社会主義の中で、自由主義経済を実行しようとしたのです。それで現在の中国の経済発展があるのです。
その後、中国の若者達が経済も自由なら政治も自由にしてほしいと天安門事件は起きました。胡耀邦は天安門で青年たちの話を聞いて必死になだめましたが、鄧小平は若者を弾圧し胡耀邦を追放しました。鄧小平が死ぬ前、胡耀邦を再び自分の後継にすると思いましたが、最も保守的な考えに凝り固まった江沢民と李鵬を指名しました。なぜ改革開放に反対を唱える最も保守的な人を後継に選んだのか。歴史はあとには戻りません。改革開放を唱える人を後継者にすると、自由主義がますます進み共産主義が崩壊するかも知れないと考えたのです。改革開放は止めることはできないが、反対派の人ならちょうどバランスがとれると考えたのです。いかにガチガチの保守派でも、中国の改革開放の波は止められない。せいぜい締め付けが出来る程度です。
改革は7~8分でほどほどにしなさいと小泉さんに言ったのは、そういう意味なのです。最近小泉改革は緩んでいると言われますが、私はそれで良いと思います。後継者も支援者もいませんでしたが、清盛はすべてをやろうとしました。頼みは平家の武力だけでしたが、一門の人間は遊び暮らしていました。清盛は孤独で改革をやろうとして倒れました。非常に残念な結果でしたが、この中には教訓が含まれています。改革はやるからにはやり遂げなくてはなりません。国民はその時々の現象で賛成とか反省とか言うのではなく、一回任せた以上はどんな痛みがあろうとも最後まで任せねば改革はできないと思います。
(文責 事務局)